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<インパーソン徒然草>三度目の正直でヒロ斎藤に!!【#3】

サイン収集
ヒロ斎藤のサイン

ワタシはプロレスが大好きだ。
もし10年前にブログを開設していたら、絶対に「プロレス」のカテゴリーを作っていた。
当時の熱意が失われ、今はときどき観戦する程度にとどまっているが、やっぱりプロレスは好きだ。

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出会いのきっかけはセントーン!?

そんなワタシが大好きなレスラーといえば、藤波辰爾とヒロ斎藤の2人だ。
大学時代、入学直後の懇親会で好きなレスラーを聞かれたことがある。その際、藤波とヒロ斎藤の名前を挙げたところ、藤波は理解されたようだがヒロ斎藤はピンとこなかったようで笑われてしまった。

ただ、ヒロ斎藤が数々のジュニアヘビー級王座を手にした時代は、ワタシはプロレスから一時的に離れていたので実際に観ていない。
そんなワタシがヒロ斎藤に惚れ込んだきっかけはセントーン。
中学時代からの友人だったEKと「セントーンってジャンプしてから相手の上に背中から落ちるだけの技なのに、なんであんなに痛そうなんだ?」という話で盛り上がり、それをきっかけにしてヒロ斎藤に注目。金髪というわかりやすい風貌、小気味いい動き、ぽてっとした体から放たれるブリッジのきれいなジャーマン・スープレックス・ホールド…ワタシは瞬く間にヒロ斎藤にハマってしまった。

とはいえ、この頃のヒロ斎藤は不遇の時代。アントニオ猪木が第一線を退いたものの、藤波辰爾、長州力、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、馳浩、佐々木健介とヘビー級の日本人だけ見ても新日本プロレスは多士済々。この中でヒロ斎藤は「ブロンド・アウトローズ」というヒール軍団を結成し、IWGPタッグ王座を獲っても勢いは一時的で、トップ戦線に食い込むことはできなかった。

ヒロ斎藤
■1961年5月25日生まれ ■神奈川県出身 ■175cm/97kg ■1978年8月26日デビュー(新日本プロレス) ■新日本プロレス(1978~1985)-カルガリー・ハリケーンズ(1985~1987)-新日本プロレス(1987~2006)-無我ワールド・プロレスリング/DRADITION(2006~) ■戴冠歴:WWFジュニアヘビー級王座、世界ジュニアヘビー級王座、IWGPタッグ王座など

ヒロ斎藤が居酒屋に出現!?

そんなヒロ斎藤が再び脚光を浴びたのが1995年。
この年、ヒロ斎藤は蝶野や帰国したばかりの天山広吉とともに「狼群団」を結成。狼群団はのちのnWoにも影響を与えたといわれるほどのヒールユニットで、団体に盾突く姿勢がカッコよかったし、この3人による試合はとにかくテンポが絶妙で観ていて飽きなかった。

1995年3月なので、ヒロ斎藤が狼群団に加入した直後のことだ。
この頃、大学を卒業したばかりのワタシは卒業旅行として、「青春18きっぷ」を使った2泊3日のプロレス観戦ツアーを計画。2人の友人とともに新日本プロレスとみちのくプロレスを観て回った。

新日本プロレスの試合を観終えたあと、ワタシたちは興奮冷めやらぬまま、ある居酒屋に入った。
すると目の前にえらくごつい人が座っていて、その人になぜか睨まれ…あら、ブラック・キャットじゃないか! ブラック・キャットといえば「ネコちゃん」の愛称で知られる、新日本プロレスのベテランレスラーだ。さすがにワタシは緊張してしまった。

ワタシたちが遠慮する必要もないのに恐る恐るお酒を飲みはじめると、やがてトニー・セント・クレアーとエディ・ゲレロがネコちゃんに合流。トニー・セント・クレアーはイギリス出身の技巧派レスラーで、ワタシの好きな選手の1人だ。また、エディ・ゲレロは当時は2代目ブラック・タイガーとして活躍し、新日本プロレスのジュニア戦線の中心選手だった。

プロレスファンとしてはあまりにも幸せな空間だが、当時のワタシはかなりの人見知りで、声ひとつかけられず。ネコちゃんたちの楽しそうな会話を背中で聞きながら、静かにお酒を飲んでいるだけだった。

そして、しばらくすると今度はヒロ斎藤がその居酒屋にふらりと出現! ヒロ斎藤はネコちゃんたちの「一緒に飲もうよ!」という誘いをやんわり断ると、お店の片隅で静かに飲んでいた。
その後、レスラーたちに声をかけることもなく、ワタシたちはお会計をして居酒屋を出た。ワタシは「今はプライベートだ。邪魔しちゃいけない。エディはマスクマンだ。素顔のときに声なんてかけちゃいけない」という言い訳を胸に秘めながら…。

「炭火焼肉ヒロ」!? そりゃ行くべきでしょう!

それから数年後、ヒロ斎藤が千葉県船橋市に「炭火焼肉ヒロ」を開店したという情報をキャッチ。そちらのお店に行く機会を虎視眈々とうかがっていた。
そんなワタシの思惑に乗ってくれたのが、同じくプロレス好きのIくんだ。

時間を作って「炭火焼肉ヒロ」を訪れたワタシたちは、おいしい焼き肉を思う存分味わった。
そんなとき、黒いキャップとジャンパーを身にまとった、背はあまり高くないながらも体がえらく分厚い人が入ってきて…あ、ヒロ斎藤じゃないか!

Iくんもすぐに気づいたようだが、ワタシとIくんはお互いに目を合わせるばかりで声をかけず、ここでもワタシのビビりっぷりが露呈。帰り際に「ごちそうさまでした」とヒロ斎藤に声をかけ、「ありがとうございます」と返事をいただくのが精一杯だった。

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「表紙は西村だろう」

その後、2006年にヒロ斎藤は新日本プロレスを退団。
オーソドックスなスタイルが逆に強烈な個性となっていた西村修も新日本プロレスを退団し、ヒロ斎藤とともに行動。無我ワールド・プロレスリングの自主興行を行うことを発表しており、7月1日に水道橋の「ファイティングカフェ コロッセオ」(現在は閉店)でチケット先行販売とトークショーを行う予定になっていた。

この情報をキャッチしたワタシはワクワクしながら当日が来るのを待ち、その日はいつもよりちょっとだけ早起きして水道橋へ。
チケット先行販売では、やはり新日本プロレスを退団していたリングアナの田中秀和(ケロちゃん)がチケットを販売。そして、そのそばでヒロ斎藤と西村がサイン会をスタート!!

この日、チャンスがあればサインをいただこうと思い、藤波が自主興行として行っていた「無我」のパンフレットを持参。
しかし、こちらを手にしてヒロ斎藤にサインをお願いしたところ、「表紙は西村だろう」と言われてしまう。
それでもワタシは食い下がり、パンフレットの表3(裏表紙の裏)を開いて改めてサインをお願い。「しょうがないなぁ」といった表情を浮かべながらも、ヒロ斎藤はサインを書いていただいた。

また、西村にもサインをいただけたのだが、この日のワタシはシアトル・マリナーズのジャージを着ていて、西村に「マリナーズのファンですか?」と声をかけてもらっている。
西村は無我ワールド・プロレスリングの旗揚げに向けて意気が揚がってきているのか、目が輝いていた。

西村修のサイン。

その後、しばらく時間を置き、13時30分からトークショーがスタート。
トークショーはケロちゃんが司会を務め、ヒロ斎藤と西村がトーク。同じく新日本プロレスを退団していた後藤達俊と長井満也も少しだけ参加した。

ただ、いかにも口下手なヒロ斎藤に対し、西村は文字どおり弁舌が立つ論客。トークショーはほとんど西村の独演会と化し、ヒロ斎藤の10倍以上はおしゃべり。ケロちゃんが楽しそうにヒロ斎藤と西村にツッコミを入れていた。
その中でケロちゃんが「西村対ヒロ斎藤の1試合だけでも興行をするつもりだった」とポツリ。当時のワタシはだからこそ応援したいと胸を熱くした。

それから約20年。
2019年に行われたヒロ斎藤の40周年記念興行の試合が、今のところワタシにとってヒロ斎藤の雄姿を観た最後の機会になっている。
2020年以降、公の場に姿を見せていないようだが、今も元気でいてくれたらいいなぁ…と思う。

(お出かけ日:2006年7月1日)
※敬称略させていただきます。
※各情報は2025年11月時点のものです。

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